山口県子ども文庫連絡会主催の「作家が選んだ極上の子どもの本ーとっておきの私の本棚ー」というイベントに行って来ました。ゲストはあべ弘士さん、角野栄子さん、そして村中李衣さん。
構成は1部があべさんの講演会「動物園にぼくはいた〜そして、北極圏に行った!〜」
2部は、あべ弘士さん、角野栄子さん、村中李衣さんのシンポジウム。
会場入ってすぐの場所に3人の作家、児童書専門店「こどもの広場」、学生の選んだ「極上の」本の展示と作家の作品の販売ブースが設けてありました。
2部のシンポジウムについてちょっと書いてみます。
結論から言うと、ものすごく楽しかった。
わたしは角野栄子さんしか知らなかったのだけど(言わずもがな、魔女の宅急便を書いた人です。)、皆さんのお話が興味深かった(あべさんのはなしは第1部で随分楽しませてもらったし、村中さんは大学で教えているせいか話しが聞きやすかった)。
第2部は予め作家の人たちに選んでもらった極上の本(展示されている本)をステージ近くに持ってきて、その思い入れを語る会みたいな感じだった。
いくつか心に残ったこと、思ったことを書く。
ひとつ目は彼らが語るわたしにとっては未知の世界。それぞれがそれぞれのディープな世界を持っているということ。3人が3人とも、なので、会の1時間半の間、物語の世界にいるようだった。あべさんの動物の話、角野さんのイギリスの古本屋ばかりの村の話(コレだけ聞くとファンタジーにしか思えない)、村中さんの貸本屋の話(ゲゲゲの女房でそういうものがかつてあったということだけは知っているけど)などなどなどなど…。取り留めもないような話がたくさんあって、くらくらした。
もうひとつは3人とも「本」が好き。「本」っていうのは「紙の本」、ね。書かれている内容(言葉)はもちろんだろうけれど、手にとってめくったり、破れたり、書き込んだり、匂いがあったり、そういう本を愛している。この感覚はわたしにもものすごくあって、それを語りだすとキリがない。本というものに対する愛をこう語ってくれる人達がいるんだなって嬉しかった。私も混じっていろんな話をしたかった。こたつに入ってみかん食べながら。
今回改めて思ったのは本の「物」としての価値と「内容」としての価値はまた別なんだということ。(と、ここで思い出すのだけど、洋書のペーパーバックがあんなに読みにくくてすぐにぼろぼろになるデメリットを背負っているのはペーパーバックは作品の内容を読むためだけのものとみなしている要素が強いからじゃないかな。日本の本って紙質はいいし、装丁もしっかりしている(文庫本新書でさえも)。そもそも本という「もの」に対する価値観の基準となっているものが違うんじゃなかろうかと改めて思った。)
「iPadだとなんか違う」とおっしゃっていた村中さん。「電子書籍なんて…」とおっしゃっていた自称アナログ人間のあべさん。「極上の本」を語る上でその意見はすごく共感できる。というのは、村中さんにとっての極上の本は自分の記憶(カバーから出し入れしたり、自分の印をつけたりという経験や体験)と密接に結びついたものだから。あべさんは絵本作家ということもあるから子どもが読むことを前提をするとページをめくるという行為と視覚的作用に重きを置いているから(ページを捲るごとに映画のように物語が展開していくさまを言っていた)だし、更に言うと、カラーの絵本をキチンと見せてくれるディバイスは現状では無いし。
推測するに、彼らの電子書籍に対する上の一見批判に見える発言は本の言葉を読むだけのものだけとは見ていないことにつながってくるのだろうな。そしてその点に関しては電子書籍の利便性にバンザイしている私も共感するところだ。
そしてコーディネーターの横山さんは児童書専門店の方なのだけど「本が売れなくて本屋をやめようかと思うこともある。本を持っていると、かさばる、というようなマイナスのイメージを皆持っているのでは…」的なことをおっしゃっていた。たしかに。だって有名な絵本や児童書の多くは大抵図書館に入っているから図書館でいいや、って思う人も多くいるだろう。子どもが扱う本だから、簡単に破れないように紙は厚めでハードカバーの物も多く、したがって値段も比較的高い。わたしは電子書籍バンザイな方なんだけど、児童書に関しては日本はしばらく紙の本は生き残るんじゃないかなと思っている。ひとつは画の問題(挿絵含む)、もうひとつは教育の観点から主張が現れそうな気がしている(含トンデモ)。あと、これからは本屋という場所の役割は変わっていかざるを得ないだろうとは思う。こういうイベントを積極的に開いたり、本を売るだけの場所ではなくなるんだろう。
ひとつジレンマだったのが、作家の皆さんが選ぶ極上の本の多くは絶版になっているということ。欲しい本が既に絶版で残念な気持ちになることが多い私は、こういう時に書籍の電子化は大いに役に立つのではないかなと思っている。たしかに紙の本は特別の思入が出来たりするかもしれないけれど、まずは作品と出会わなくては。本を作ってきた方たち、関わってきた方たちにリスペクトを捧げつつ、どうか時代の変化にネガティブな気持で臨まないでほしいなと切に願う(御三方がそう思っていると言っているわけではなく、一般的に)。だって、本を読むのが大好きなんだもの。
2012年2月26日@海峡メッセ下関
「作家が選んだ極上の子どもの本ーとっておきの私の本棚ー」
シンポジウム「とっておきの私の本棚ーないしょのお話ー」パネリスト:あべ弘士、角野栄子、村中李衣、コーディネーター:横山眞佐子(児童書専門店「子どもの広場」)構成は1部があべさんの講演会「動物園にぼくはいた〜そして、北極圏に行った!〜」
2部は、あべ弘士さん、角野栄子さん、村中李衣さんのシンポジウム。

2部のシンポジウムについてちょっと書いてみます。
結論から言うと、ものすごく楽しかった。

第2部は予め作家の人たちに選んでもらった極上の本(展示されている本)をステージ近くに持ってきて、その思い入れを語る会みたいな感じだった。
いくつか心に残ったこと、思ったことを書く。

もうひとつは3人とも「本」が好き。「本」っていうのは「紙の本」、ね。書かれている内容(言葉)はもちろんだろうけれど、手にとってめくったり、破れたり、書き込んだり、匂いがあったり、そういう本を愛している。この感覚はわたしにもものすごくあって、それを語りだすとキリがない。本というものに対する愛をこう語ってくれる人達がいるんだなって嬉しかった。私も混じっていろんな話をしたかった。こたつに入ってみかん食べながら。
今回改めて思ったのは本の「物」としての価値と「内容」としての価値はまた別なんだということ。(と、ここで思い出すのだけど、洋書のペーパーバックがあんなに読みにくくてすぐにぼろぼろになるデメリットを背負っているのはペーパーバックは作品の内容を読むためだけのものとみなしている要素が強いからじゃないかな。日本の本って紙質はいいし、装丁もしっかりしている(文庫本新書でさえも)。そもそも本という「もの」に対する価値観の基準となっているものが違うんじゃなかろうかと改めて思った。)
「iPadだとなんか違う」とおっしゃっていた村中さん。「電子書籍なんて…」とおっしゃっていた自称アナログ人間のあべさん。「極上の本」を語る上でその意見はすごく共感できる。というのは、村中さんにとっての極上の本は自分の記憶(カバーから出し入れしたり、自分の印をつけたりという経験や体験)と密接に結びついたものだから。あべさんは絵本作家ということもあるから子どもが読むことを前提をするとページをめくるという行為と視覚的作用に重きを置いているから(ページを捲るごとに映画のように物語が展開していくさまを言っていた)だし、更に言うと、カラーの絵本をキチンと見せてくれるディバイスは現状では無いし。
推測するに、彼らの電子書籍に対する上の一見批判に見える発言は本の言葉を読むだけのものだけとは見ていないことにつながってくるのだろうな。そしてその点に関しては電子書籍の利便性にバンザイしている私も共感するところだ。
そしてコーディネーターの横山さんは児童書専門店の方なのだけど「本が売れなくて本屋をやめようかと思うこともある。本を持っていると、かさばる、というようなマイナスのイメージを皆持っているのでは…」的なことをおっしゃっていた。たしかに。だって有名な絵本や児童書の多くは大抵図書館に入っているから図書館でいいや、って思う人も多くいるだろう。子どもが扱う本だから、簡単に破れないように紙は厚めでハードカバーの物も多く、したがって値段も比較的高い。わたしは電子書籍バンザイな方なんだけど、児童書に関しては日本はしばらく紙の本は生き残るんじゃないかなと思っている。ひとつは画の問題(挿絵含む)、もうひとつは教育の観点から主張が現れそうな気がしている(含トンデモ)。あと、これからは本屋という場所の役割は変わっていかざるを得ないだろうとは思う。こういうイベントを積極的に開いたり、本を売るだけの場所ではなくなるんだろう。
ひとつジレンマだったのが、作家の皆さんが選ぶ極上の本の多くは絶版になっているということ。欲しい本が既に絶版で残念な気持ちになることが多い私は、こういう時に書籍の電子化は大いに役に立つのではないかなと思っている。たしかに紙の本は特別の思入が出来たりするかもしれないけれど、まずは作品と出会わなくては。本を作ってきた方たち、関わってきた方たちにリスペクトを捧げつつ、どうか時代の変化にネガティブな気持で臨まないでほしいなと切に願う(御三方がそう思っていると言っているわけではなく、一般的に)。だって、本を読むのが大好きなんだもの。
0 件のコメント:
コメントを投稿